日記が怠慢な理由
2007年1月21日さぁ、最近全然日記かいてません。
あーあ、結局三日ではなかったけど、一年と続かなかった…
いや、続けてみせる
さて、土曜日は学校がありました。
つっても、重要なことあんまやってない。。。
なんか、京都の班割りを考えないといけなかったぽいですが
普通にくり、ムスコリー、I高、ジャンヌ、あずマックスらと普通に雑談やくだらない話をしてました。笑
その後、くり、ムスコリーについていき、一組のたまり場と化した卓球場で卓球。初心者な割にはなかなか上手くできた…のか?? 妹に全然勝てないことを思い出すと萎える。苦笑
そして、この三人(ハンド部)VSストリートバスケ部で軽くバスケ対決。久しぶりだったけど、3ポイントが結構入って嬉しかったw
教室に戻ると、議長おせーよ的な雰囲気をあの普段は温厚なS科先生がかもし出していて、ちょっとやばいかなーと思いました。
この前も、八方向を、うるさい人で囲まれた時の授業で、俺はかなりうるさくなってしまっていたので、それ以来、というか、3学期入ってから、微妙にS科さんの見る目が…気のせいか?
学校が終わると、ムスコリー、サッキー、チワワの三人と侍でラーメンを食ってから、ムスコリーとHZChenと新宿へ。
そんな一日でした。
うーむ
なんで、最近、日記が怠慢なんでしょう?
検証してみましょう。
以下、めんどくさい話
そもそもなぜ、日記をつけているのか?
一番上のほうに書いてある通り
過去は現在を遡って形成されてしまう事が多々あり、それを極力防ぎたいがために日記をつけている、と自分では思ってます。
つまり、思い出というものは、あとで思い返すと、色々なエフェクターが掛けられてしまったり(美化されてたり、或いは、嫌な事は忘れてしまっていたり、など等)していて、例えば、後から思い返して「そうか、あれはあぁいう事が起こる前兆だったのか」と思っても、ひょっとしたら、それはそのエフェクターによって都合良く解釈されて初めて成り立っているものかもしれません。
しかし、エフェクターを掛けてるのは自分自身なので、いったん、過去について「こうだった」と思い返してしまうと、エフェクトが架かってるかどうかはかなりのレベルの謎になってしまいます。
たとえば、付き合ってる彼女が仮にいたとしましょう。そして振られることになったとき、色々原因を考えるでしょう。「あれは嬉しそうだったけど、内心嫌がってたのかも知れない」、「あぁ、あの時のあの反応は嫌いに成り始めてたってことなのか」などなど。
しかし、それは現在の「振られた」という事実があって初めて思い返される、思考される内容です。もし振られるのと同じ日に、別の世界ではとびっきり良いデートか何かしてたら、また別な風にそれらの過去の出来事を思い返すでしょう。「やっぱりあれは嬉しそうだったしな」とか「あの時のあの反応は、本当は恥ずかしがってたのか」とか解釈されるかもしれません。
まぁ、あくまで全部、『例えば』の話ですが。
さて、上の例で言えば、「あれ」も「あの時のあの反応」も本当は彼女が何を考えて、感じていたのかは、客観的に分析する以外に知りようは無いのですが、一番悪いのは、そういう時に、「今振られた」という後付けの情報がその判断を惑わす場合です。
ぶっちゃけてしまうと、全ては原因で、結果です。
起こるべくして全ては起こっているし、起こらないものは決して起こらない。
つまり、原因を色々考えても、それは究極的には「起こったからそれは起こった」としか言いようが無いのです。
下手に理屈をつけても、その行為には意味が無いのです。
殺人事件の動機と一緒です。
あんなものは無意味。
結局「意味づけ」という行為には、「正当化」という役割しか演じることが出来ません。そしてそれこそが遡って作られる過去であり、また俺が嫌なことなのです。
それを封じる(一番かどうかは分からないけど)手軽な方法が日記なわけです。下手に「原因」と見られかねない出来事も、日記でちゃんと記録してあればそれはあくまで、一事象であり、無意味な正当化を防ぐことが出来ます。
そういう観点で観ると、こういう風に、「日常」としか言いようが無い、最近の生活も、後で、原因と見られる可能性のあるものは一応、それ自身を思い出として記録するように、日記に書くべき奈わけです。
さて、以上が建前。
上の理屈だと、なんで最近書かないのか、説明できません。
なんで最近書かないのか。
単純に最近楽しいからだと思います。
いちいち書いてらんねーよ、って思うだけの余裕が
ようやくできたのかも。
あーとは言っても、楽しい時でもやっぱり日記書きたいときとかあるし。。。。
要するに、だんだん飽きてきただけですね。 笑
結局それかよ! っていう。
まぁ、頑張ります。
来週一週間毎日書くのが、とりあえずの目標ってことでw
ではではw
1972文字
あーあ、結局三日ではなかったけど、一年と続かなかった…
いや、続けてみせる
さて、土曜日は学校がありました。
つっても、重要なことあんまやってない。。。
なんか、京都の班割りを考えないといけなかったぽいですが
普通にくり、ムスコリー、I高、ジャンヌ、あずマックスらと普通に雑談やくだらない話をしてました。笑
その後、くり、ムスコリーについていき、一組のたまり場と化した卓球場で卓球。初心者な割にはなかなか上手くできた…のか?? 妹に全然勝てないことを思い出すと萎える。苦笑
そして、この三人(ハンド部)VSストリートバスケ部で軽くバスケ対決。久しぶりだったけど、3ポイントが結構入って嬉しかったw
教室に戻ると、議長おせーよ的な雰囲気をあの普段は温厚なS科先生がかもし出していて、ちょっとやばいかなーと思いました。
この前も、八方向を、うるさい人で囲まれた時の授業で、俺はかなりうるさくなってしまっていたので、それ以来、というか、3学期入ってから、微妙にS科さんの見る目が…気のせいか?
学校が終わると、ムスコリー、サッキー、チワワの三人と侍でラーメンを食ってから、ムスコリーとHZChenと新宿へ。
そんな一日でした。
うーむ
なんで、最近、日記が怠慢なんでしょう?
検証してみましょう。
以下、めんどくさい話
そもそもなぜ、日記をつけているのか?
一番上のほうに書いてある通り
過去は現在を遡って形成されてしまう事が多々あり、それを極力防ぎたいがために日記をつけている、と自分では思ってます。
つまり、思い出というものは、あとで思い返すと、色々なエフェクターが掛けられてしまったり(美化されてたり、或いは、嫌な事は忘れてしまっていたり、など等)していて、例えば、後から思い返して「そうか、あれはあぁいう事が起こる前兆だったのか」と思っても、ひょっとしたら、それはそのエフェクターによって都合良く解釈されて初めて成り立っているものかもしれません。
しかし、エフェクターを掛けてるのは自分自身なので、いったん、過去について「こうだった」と思い返してしまうと、エフェクトが架かってるかどうかはかなりのレベルの謎になってしまいます。
たとえば、付き合ってる彼女が仮にいたとしましょう。そして振られることになったとき、色々原因を考えるでしょう。「あれは嬉しそうだったけど、内心嫌がってたのかも知れない」、「あぁ、あの時のあの反応は嫌いに成り始めてたってことなのか」などなど。
しかし、それは現在の「振られた」という事実があって初めて思い返される、思考される内容です。もし振られるのと同じ日に、別の世界ではとびっきり良いデートか何かしてたら、また別な風にそれらの過去の出来事を思い返すでしょう。「やっぱりあれは嬉しそうだったしな」とか「あの時のあの反応は、本当は恥ずかしがってたのか」とか解釈されるかもしれません。
まぁ、あくまで全部、『例えば』の話ですが。
さて、上の例で言えば、「あれ」も「あの時のあの反応」も本当は彼女が何を考えて、感じていたのかは、客観的に分析する以外に知りようは無いのですが、一番悪いのは、そういう時に、「今振られた」という後付けの情報がその判断を惑わす場合です。
ぶっちゃけてしまうと、全ては原因で、結果です。
起こるべくして全ては起こっているし、起こらないものは決して起こらない。
つまり、原因を色々考えても、それは究極的には「起こったからそれは起こった」としか言いようが無いのです。
下手に理屈をつけても、その行為には意味が無いのです。
殺人事件の動機と一緒です。
あんなものは無意味。
結局「意味づけ」という行為には、「正当化」という役割しか演じることが出来ません。そしてそれこそが遡って作られる過去であり、また俺が嫌なことなのです。
それを封じる(一番かどうかは分からないけど)手軽な方法が日記なわけです。下手に「原因」と見られかねない出来事も、日記でちゃんと記録してあればそれはあくまで、一事象であり、無意味な正当化を防ぐことが出来ます。
そういう観点で観ると、こういう風に、「日常」としか言いようが無い、最近の生活も、後で、原因と見られる可能性のあるものは一応、それ自身を思い出として記録するように、日記に書くべき奈わけです。
さて、以上が建前。
上の理屈だと、なんで最近書かないのか、説明できません。
なんで最近書かないのか。
単純に最近楽しいからだと思います。
いちいち書いてらんねーよ、って思うだけの余裕が
ようやくできたのかも。
あーとは言っても、楽しい時でもやっぱり日記書きたいときとかあるし。。。。
要するに、だんだん飽きてきただけですね。 笑
結局それかよ! っていう。
まぁ、頑張ります。
来週一週間毎日書くのが、とりあえずの目標ってことでw
ではではw
1972文字
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