真理というものはその単純さ故に言語表現が不可能である
2006年11月1日さて、大分サボってしまいました。。。
まぁ文化祭で忙しいから、ということにしておきましょうw
今日はもう文化祭の2日前なので、大分遅くまで残って色々作業してました。教室を出たのが7時45分くらい?
一緒に帰ったのが、ミッチェル、ゆうさい、お兄ちゃんと言う普段あまり無い組み合わせだったので、ついトークが面白い方向に傾いていきました。
あ、期待しないでくださいね。
まぁ、もとより期待してないですね。はい。
最初に駒場野公園あたりでミッチェルとゆうさいが「国語」と「母語」の違いについて議論してました。ありますよね、ああいう言葉の議論で絶対どうにもならないもの。答えはいつも決まってます。「微妙に違う」って事で落ち着くはずです。そういう類のものは。
そして駒場東大前の駅についた時点で、いつの間にか議論は数学の性質、本質に関わる議論に。笑
数学は内なる学問か、外なる学問か。
要するに、人間よりも先に数学があって、その壮大な数学の世界を人間が探求してるのか、或いは結局数学は人間がどんどん自分自身の思考を掘り下げてる学問なのか。ということです。
これって実は数学に限らずに他のどの学問でも言えることなんですけど、結局、自分の内と外の問題なんですよね。心身二元論、というか唯心論、唯物論、唯識論等はこれの類ですよね。
で、その後渋谷駅についてから俺の十八番の『色』議論に。
これ、小さい頃に考えてたことで、ふとしたことからオランダにいる時に向こうの某Kにちょこっともらしたら、一言で通じたんですよ。で、それに感動してそれ以来、暇な時にはこの議論をいろんな人としてます。
某Kの時のように一発で通じたことは、それ以来無いです。
あー、長くなっちゃった。笑
本当に単純なことほど、説明がしづらいです。
さてと、これを帰りに渋谷で3人にしたところ、お兄ちゃんとゆうさいは比較的すぐ分かってくれたんですが、ミッチェルが少しかかって彼、曰く「分かるまで帰さない」笑
結果、渋谷駅のまんなかで、認識論哲学について議論してるT駒生、という謎の絵が出来上がってしまいました。笑
でもこんなの日本で議論したのは久しぶりで、超良かったです。笑
ふぅ、明日は前日準備。
全日準備だっけ?
3年ぶり。
結構楽しみ。
ではではw
1644文字
まぁ文化祭で忙しいから、ということにしておきましょうw
今日はもう文化祭の2日前なので、大分遅くまで残って色々作業してました。教室を出たのが7時45分くらい?
一緒に帰ったのが、ミッチェル、ゆうさい、お兄ちゃんと言う普段あまり無い組み合わせだったので、ついトークが面白い方向に傾いていきました。
あ、期待しないでくださいね。
まぁ、もとより期待してないですね。はい。
最初に駒場野公園あたりでミッチェルとゆうさいが「国語」と「母語」の違いについて議論してました。ありますよね、ああいう言葉の議論で絶対どうにもならないもの。答えはいつも決まってます。「微妙に違う」って事で落ち着くはずです。そういう類のものは。
そして駒場東大前の駅についた時点で、いつの間にか議論は数学の性質、本質に関わる議論に。笑
数学は内なる学問か、外なる学問か。
要するに、人間よりも先に数学があって、その壮大な数学の世界を人間が探求してるのか、或いは結局数学は人間がどんどん自分自身の思考を掘り下げてる学問なのか。ということです。
これって実は数学に限らずに他のどの学問でも言えることなんですけど、結局、自分の内と外の問題なんですよね。心身二元論、というか唯心論、唯物論、唯識論等はこれの類ですよね。
で、その後渋谷駅についてから俺の十八番の『色』議論に。
これ、小さい頃に考えてたことで、ふとしたことからオランダにいる時に向こうの某Kにちょこっともらしたら、一言で通じたんですよ。で、それに感動してそれ以来、暇な時にはこの議論をいろんな人としてます。
某Kの時のように一発で通じたことは、それ以来無いです。
『真理というものはその単純さ故に言語表現が不可能である』という言葉通り、これはすごく単純なことなんですが、すごく説明しづらいです。俺と同じように昔、ふと考えたこと有る人とかはすぐぴんとくると思うんですが。。
要するに、人によって、「認識してる色」は全然違う可能性が普通にある、ということです。あー、分かりづらい。
あぁ、「色盲」とか、「緑にも深緑とか黄緑とかいろんな緑がある」とかそういう話ではありません。根本的に違います。あと、信号が青か緑か、っていうのも違います。
たとえば、ここに有る仮定の物体が存在したとして、観測者AとBを想定します。お互いにそれを全然違う色として認識しますが、そんなことはお互いに確認できるわけがないし、とりあえず「じゃぁ、これは村崎色で」って事で合意が成立しえます。でも、二人の頭の中をのぞくと、Aにはそれが『青』っぽく見えてて、Bには『黄』ぽく見えてるとしましょう。
別の同じ色の物体を見たとき、当然、Aには『青』い色が見え、Bには『黄』色い色が見えるわけですが、合意のせいで、二人とも「村崎色」ということで納得します。
二人の認識の間のギャップは絶対に認知されえません。
なぜなら、それは純粋に認知段階における差であって、それを口に出そうとすると、また言語という認知からは一歩下がったレベルの共通の土台を利用しないといけなくなるからです。その時点で、認知段階のギャップを論理的に説明するのは非常に困難になります。
これとまったく同じことが現実世界でも普通に言えます。
あなたが赤を思い浮かべる時、それは俺にとっての青を思い浮かべてる可能性が十二分にある、ってことです。
あー、長くなっちゃった。笑
本当に単純なことほど、説明がしづらいです。
さてと、これを帰りに渋谷で3人にしたところ、お兄ちゃんとゆうさいは比較的すぐ分かってくれたんですが、ミッチェルが少しかかって彼、曰く「分かるまで帰さない」笑
結果、渋谷駅のまんなかで、認識論哲学について議論してるT駒生、という謎の絵が出来上がってしまいました。笑
でもこんなの日本で議論したのは久しぶりで、超良かったです。笑
ふぅ、明日は前日準備。
全日準備だっけ?
3年ぶり。
結構楽しみ。
ではではw
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